2009年06月29日

南北関係・統一問題

建国以来、北朝鮮とは「朝鮮の正統な国家」としての立場を巡り、敵対的な関係が続いた。1950年に勃発した朝鮮戦争で朝鮮半島の分断は決定的となった。その後、韓国では民主化時代まで強い反共主義が取られ、北朝鮮のスパイや共産主義者に対して厳重な取締が行われた。
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統一に向けた努力が幾度と試みられたが、実を結ぶには至っていない。1980年には、北朝鮮から高麗民主連邦共和国創設と、低い段階での連邦制を提示された。冷戦終結以後は雪解けが進み、韓国と北朝鮮の国連同時加盟や共同声明に結実した。韓国は金大中政権以降になって太陽政策をとり、初の南北首脳会談が実現するなど、国内に和解ムードが広がっている。一方で北朝鮮核問題、韓国人拉致疑惑問題など未解決のいくつかの問題がある。

大韓民国は日本が唯一朝鮮半島の正統国家として承認している国であり、隣国であるだけでなく、かつては日本の一部であったという歴史的背景という面もあり、政治・経済・文化などあらゆる分野で緊密な関係にある。

一方で歴史的背景から日本に対して強い敵対意識を持つ側面もある。特に日韓併合から第二次世界大戦(大東亜戦争)までの日本の統治に対して否定的な意見は多く、盧武鉉政権になってから日本統治時代の「親日派」の子孫を排斥弾圧する法律(日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法及び親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法)が施行されている。

2009年06月12日

肝細胞癌の画像検査について

肝細胞癌の画像検査は肝臓学の醍醐味のひとつであるので新たに章をたてて記述する。基本原則として、肝細胞は門脈血8に対して動脈血2の割合で栄養されている(通常の組織は殆ど動脈血に栄養される)。肝細胞癌(HCC)になると動脈血優位となる。そのためダイナミックCTでは動脈相で高吸収となり門脈相ではwash outされる。こういった動態をする肝細胞癌を古典的HCCという。2007年度の医療水準ではこの原則以外の肝細胞癌も治療可能である。以下にそれを記述する。

ダイナミックCT
末梢静脈から造影剤(3?5ml/秒で総量は100ml位)を急速に注入してCTをとる方法である。
動脈優位相(30秒後)、門脈優位相(80秒後)、平衡相(180秒後)で撮影する。
CTアンギオグラフィー
CTAP:上腸間膜動脈(SMA)から造影剤をいれて門脈造影を行う方法。肝内門脈のみを造影することで動脈支配であるHCCを欠損像として描出する。転移性肝癌をはじめ肝腫瘍性病変に対して、もっとも鋭敏な検査方法である。肝内門脈枝の塞栓も区域性欠損像から容易に診断できる。門脈塞栓、APシャントなど偽病変に注意する必要がある。
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CTHA:肝動脈から造影剤をいれる動脈造影。通常CTHAは早期相と後期相の2相の撮影を行う。CTHA早期相では肝細胞癌は強く造影され、後期相では腫瘍本体から腫瘍周囲肝組織に造影剤が流れ出す像(コロナサイン)がみられる。このコロナサインは肝細胞癌以外ではみられないため、これがあるときは肝細胞癌にほぼ間違いないとされる。
リピオドールCT
血管造影時に肝動脈よりリピオドールを動注し、その1週間から2週間後に単純CTを撮影する方法である。リピオドールはリンパ造影剤のひとつで動注すると一過性に類洞内に停滞する。正常肝細胞では5日程度でwash outされるが、HCCでは集積する。TAE後の腫瘍へのリピオドール集積度合いで効果判定をすることがある。なお、リピオドールと抗癌剤を混濁して使用することが多い。
血管造影
CTアンギオグラフィー(CT angiography;CTA)や経カテーテル動脈塞栓術(transcatheter arterial embolization; TAE)を行う基本技術である。大まかな流れとしては4Frの血管造影用シースを右大腿動脈にSeldinger法で挿入し、血管造影用カテーテルをSMAに挿入しCTAPや門脈造影を行う。次に腹腔動脈(celiac artery; CA)から総肝動脈(common hepatic artery; CHA)または固有肝動脈(PHA)にガイドワイヤーを使って血管造影用カテーテルを誘導し、肝動脈造影もしくはCTHAを行う。止血は穿刺部と中枢側の2点で15分間圧迫止血し、帰室後6時間で安静解除可能である。血管造影の有名な所見としては腫瘍濃染像(tumor stain)、APシャント、門脈内腫瘍塞栓(PVTT)があげられる。

診断 [編集]
典型的な画像所見および腫瘍マーカーにより診断される。画像検査で診断がつかない場合(胆管細胞癌や転移性肝癌との鑑別など)は組織検査により確定診断される。

2009年06月07日

艦船乗員による陸戦隊

海兵隊廃止後は専ら陸戦隊が海軍の陸上戦闘機能を担うこととなった。そのため、艦艇乗組員のうち必要数をあらかじめ陸戦隊要員として指定しておき、有事の際に「陸戦用意」の命令のもと武装し臨時の陸戦隊を編成した。戦隊・艦隊ごとに編成計画を定めてあり、小規模なものは単艦で編成する小隊・中隊程度の陸戦隊から、大規模なものは複数艦の陸戦隊を集めた連隊・旅団程度の「連合陸戦隊」までがあった。単艦ごとの部隊は艦名を付して「軍艦長門陸戦隊」、連合陸戦隊ならば「第一艦隊連合陸戦隊」というような呼び方をするのが通常である。

なお、太平洋戦争中には、沈没艦の乗員が再編成されて陸戦隊として地上戦に投入された場合がある。その場合も、旧乗艦ごとに小隊・中隊を組織することが多かった。

艦船乗員ではなく、鎮守府などの陸上部門の人員によって編成された陸戦隊のことである。もともとは艦船乗員による陸戦隊同様に、必要に応じて海兵団などで臨時に編成される特設部隊であったが、中国情勢の緊迫化で陸戦隊の需要が増えたために事実上の常設部隊としての性格を持つようになった。第二次世界大戦期には上陸作戦や占領地の守備に任ずる専門の陸戦隊として運用された。
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一般に、所属する鎮守府等の名称を冠して「横須賀鎮守府第三特別陸戦隊」(横三特)などというような部隊名で呼ばれる。通常は2?3個小銃中隊と1?2個機銃中隊、砲隊を持つ歩兵大隊相当の編制であるが、中には砲兵隊や戦車隊、空挺部隊としての編制をとるものもあった。「S特別陸戦隊」の秘匿名を与えられた特殊部隊も作られた。特別陸戦隊の場合も、複数が集まり「連合特別陸戦隊」となる場合がある。専門の地上戦闘部隊として戦車や短機関銃などの充実した装備を保有し、陸戦隊の中では高い練度を誇る精鋭とされた。太平洋戦争中には、目標地点占領後に、固定的な警備隊や根拠地隊へ改編されたものも多い。

上海海軍特別陸戦隊は、鎮守府所属ではなく上海に駐留するために編成された官衙たる常設部隊である。上海クーデターの発生した1927年より上海に駐留していた陸戦隊(鎮守府から派遣されていた特別陸戦隊2個大隊及び戦車隊等)を、上海事変の起きた1932年に独立の特別陸戦隊として整理した。通常の特別陸戦隊と比べ大規模な部隊である。


2009年04月24日

漁船銃撃・拿捕事件

2006年8月16日、水晶島付近の海域で操業中の、北海道根室市花咲港所属のカニかご漁船がロシア国境警備局の警備艇により追跡され、貝殻島付近で銃撃・拿捕され、乗組員1人が死亡する事件が発生した。日本政府はロシア当局に対し、北方領土は日本固有の領土であるとの前提に立って「日本領海内で起こった銃撃・拿捕事件であり、到底容認できない」と抗議した。しかし、この海域はロシア側の実効支配海域であるため、ロシア側にとっては国境侵犯密漁事件であり、日本側の「この海域は日本領海」とする抗議とは根本的な点で相容れないために、今回の問題をさらに複雑にした。

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この付近のロシア実効支配海域では、コンブや許可された魚については、許可を得て入漁料を支払った漁船についてのみ認められていたが、無許可操業は日本の農林水産省や北海道当局も禁止しており、またカニ漁に関しては日本側には一切認められていなかった。北海道庁は近く付近の漁協に対して、周辺海域でのカニ漁を行わないよう指導しようとしていた矢先の事件であった。今回の漁船はロシア側海域での一切の漁を認められていなかったうえに、カニ漁を行っていた可能性が高く、実際に船内からは1.1トンのカニが残留していたとロシア側は発表した。

乗組員は国後島の古釜布(ユージノクリリスク)に連行され、日本人とロシア人の友好の家(いわゆるムネオハウス)に拘束された。また、死亡した乗組員の遺体は8月19日に海上保安庁の船によって日本に引き取られた。8月30日には船長以外の2乗組員が解放され、海上で北海道庁の船に引き渡されたが、船長は9月4日にロシア側の検察により国境侵犯と密漁の罪で起訴され罰金刑が確定し、約50万ルーブルの罰金・賠償金を支払ったうえ、10月3日にようやく釈放されビザなし交流の船で根室に帰還した。

帰国後、船長は「越境も密漁もしていない」と、責任逃れの発言をしていたが、その後、根室海上保安庁の捜査に対して、違反操業を認め、2007年3月、道海面漁業調整規則違反の疑いで書類送検された。

2009年04月06日

器楽曲

器楽曲(きがくきょく)とは、器楽のための楽曲である。対義語は声楽曲。ポピュラー系の音楽ではInstrumental(英語)の日本語表記でインスツルメンタル、インストルメンタル、インストゥルメンタル、インストゥメンタル、またはこれらを略してインストなどとも言う。

人声を一切用いず、楽器のみで演奏されれば器楽曲と呼ばれる。狭義には、ピアノなどの独奏楽器のための独奏曲のことをいって、管弦楽、室内楽などと区別する。

またアニメやドラマなどの劇伴において、主題歌の歌声の部分を楽器で演奏した曲もインスト、またはメロディのみのオーケストラである事から「メロオケ」と呼ぶ。菊池俊輔は1970年代に劇伴を作る際、主題歌のインストを多用していた作曲家として知られる。

器楽曲の分類 [編集]
器楽曲
独奏曲(狭義の器楽曲)
ピアノ曲
室内楽曲
弦楽四重奏曲
ピアノ三重奏曲
ピアノ四重奏曲
ピアノ五重奏曲
合奏曲
管弦楽曲
交響曲
協奏曲
狭義の管弦楽曲
吹奏楽曲

ポピュラー音楽でのインストゥルメンタル [編集]
ポピュラー音楽のインストゥルメンタル曲では主に以下の楽器がリード楽器として用いられる。

ピアノ
エレクトリックピアノ
トランペット
サックス
クラリネット
フルート
アコースティックギター
エレクトリックギター
ハモンドオルガン
シンセサイザー

スノー モヘア サイトシス ネグロ ノンフ バルカ バチス ほうじゅん フラー レンズフ ラリア だるま ネコヤ ストリ ステッキ クスノキ サーベル シシウド スタジ レトリック ハイカラ マジッ ローレル シンデレ 交響曲 ブランク ウバイ リアル ブレス ゲイン ガイドヨニ ギアナユ パール ずきん テロップ パイレ ロコ リスボ ジャンク 冬中夏草 女神 ジャンプ亭 ケープ ノーダ オーバー フィアン イカの石 コロラド おみたま おもちゃか

2009年03月22日

ハセガワ

ハセガワ(Hasegawa)とは、飛行機・車・艦船・鉄道模型・キャラクター模型を販売する日本の模型製造会社である。
インパ バイオ せみよん センニ おいず ガポット ハムスター メシア キオス ラターシュ カム ヤール サニレレ ハブポート ダッグ ビリボ ヒロイン 草もち モーニング タイム ダイス ジントロン ラブラト パイナ 一番星 ローブプ ミング ブラッセリー ネットカー れっど サインペン トラウマ ルンバ ケナフ スローイン マネジ パプリカ タマスダレ クンシ ラッパー ソウル シャー グズベ プレゼン 元慶 インクリ オーバ バイア キャンデ レワィア

木製模型メーカーとして創業 [編集]
1941年に、長谷川製作所として長谷川勝呂が創業、戦後(1945年)は木工模型などの木製教材を製造・販売のメーカーとなり、1961年プラモデル分野に参入してハセガワ初のプラモデル「グライダー」飛行機モデルを3種類発売する。翌1962年6月に多額の開発費を投入した「1/450戦艦大和」が発売同年に約15万個が販売され1億2千万円を売り上げるヒットとなり、続けて1/90F-104スターファイター、1/70P-51ムスタングが発売・こちらも売れ筋商品となり、この成功を機に、木工模型からプラモデルへ本格的に経営の主軸を切り替える分岐点となった。

飛行機のハセガワ [編集]
1965年に、スロットカーブームが到来してハセガワも他社の動向・爆発的人気の流れに乗りスロットカー分野に参入したが、加熱しすぎた反動で急速にブームが終焉となった。これ以後安易にブームに乗らず、長く売れる商品作りを目指して安定した人気のある飛行機モデルに着目し1966年に1/72F4ファントム2が発売・120万個、3億円を売り上げる大ヒットとなったことが「飛行機のハセガワ」の方向性が決まるきっかけとなり、「定番商品」として飛行機プラモデルを主にした開発を続けることになる。

1970年、イギリスのプラモデル老舗企業フロッグ社(1935年‐1973年)との相互提携によるフロッグ商品を、自社ブランドで国内販売商品化を開始(1970年‐1973年)、ハセガワ飛行機プラモデルを欧州でフロッグブランドでの流通に乗った販売などで海外での「ハセガワ」知名度アップに繋がった。幅広い飛行機模型・商品化シリーズを多く抱えたメーカー同士のメリットある提携で、ハセガワにとっては飛行機模型シリーズの充実「飛行機のハセガワ」ブランドイメージを上げる役割も果たした。

キャラクターモデルビジネスへ進出 [編集]
1980年代、スケールモデル以外のジャンルを模索していたハセガワは、自社デザインによるSF系メカシリーズ「スペースオペレーションシリーズ」を立ち上げ、数点のキットを発売するもののセールスには結びつかず数年で撤退している。またそれと前後してトミーの「レンズマンシリーズ」のプラモデルキットをOEM開発していたことがある。1980年代末期にはミニ四駆ブームに便乗し、「カムコンテック」という自動ステアリング機構を持ったモーターライズキットを開発している。

1990年代に入り、既存金型を流用しながらデカールや一部パーツを追加したキャラクターキットの発売を開始。『エリア88』や戦場まんがシリーズなどのメジャー作品から、『青空少女隊』や『エアロダンシング』というマイナー作品までをもキット化。他にも『ああっ女神さまっ』から「猫実工大震電」、『帰ってきたウルトラマン』のマットビハイクルなど幅広いジャンルを網羅していた。変わり種としては酒井法子率いるのりピーレーシングチームののりピーシビックをキット化し当時のアイドルファンを喜ばせた。また、ドラゴンとの共同企画として『鉄腕アトム』のキットを商品化したのもこの頃である。

1990年代半ばには『スター・ウォーズ』のフィギュアをプラモデルキット化する企画がホビーショーや雑誌広告で告知されたが商品化は実現しなかった。

2001年以降は、それまでの既存金型流用というフォーマットからステップアップし、新規に金型を製作しマクロスシリーズやウルトラマンシリーズと言ったアニメ、特撮関連、電脳戦機バーチャロンと言ったTVゲーム関連のキャラクターモデル商品の開発に参入する。 そのきっかけは『超時空要塞マクロス』に登場する可変戦闘機・VF-1バルキリーの商品化で、この人気メカの戦闘機形態がF-14トムキャットをモデルとしていたことから、新金型キットを開発しても「飛行機のハセガワ」ブランドのイメージを活かせるとの判断があった。飛行機で培った精細な技術を注ぎ込んだ結果、今までハセガワの模型を購入したことがないキャラクターモデラーまで取り込んだ大ヒットを収めた。それがキャラクター分野への本格的参入に繋がり、その後のシリーズでは人型ロボットモデルにも手を広げ、ポリキャップなどキャラクターモデル独特の可動技術で向上を図っている。

2008年にはマシーネンクリーガーシリーズへの参入を表明、第1弾として傭兵軍の反重力装甲戦闘機「ファルケ」を2009年3月に発売を予定している。こうした経緯を経て、ハセガワは国内の模型メーカーとしてはスケールモデルとキャラクターモデルの両方を手がける数少ないメーカーとなっている。

鉄道模型へ参入 [編集]
1990年代初頭にTVゲームメーカーのハドソンからの依頼で製作したHOゲージサイズの土佐電鉄600型の『桃太郎電鉄』広告塗装のプラモデルを一般発売したところ、HOゲージ鉄道模型ファンの間に大きな反響を呼び、これを鉄道模型として走らせる為の動力装置が別メーカーから発売される等のブームとなった。これをきっかけとしてHOゲージに参入、後にNゲージに移行し、鉄道模型専用ブランドMODEMOを設立して現在に至っている。

主に路面電車や小型電車の完成品を商品化しており、その塗装には定評がある。Nゲージの路面電車を継続的に製品化しているメーカーはMODEMOだけであり、路面電車や小型電車を愛好する鉄道模型ファンから支持を受けている。

路面電車以外では、静岡に本拠があることからHOゲージで373系、Nゲージで313系を製品化しているが、競合他社製品と比べると走行性能(台車)に関して及ばない点もあったものの、車両の造形、前面部の塗色などにおいて他社製品よりより優れる点もある。また「セントラルライナー」仕様なども独自の製品化であった。 またNゲージ参入と同時期に過去にナカセイが80年代に販売していたプラ板状キット客車の金型を引き取り完成品として販売を始めている。

私鉄車両については、箱根登山鉄道や江ノ電といった、小田急グループの車両を多く商品化する傾向がある。また、2006年には小田急20000形「あさぎり」を製品化した。これらは台車構造を変更し走行性能も改善され、かつハイディテールである。2006年にデビューした江ノ島電鉄新500系も2007年12月に商品化された。どちらかというと路面電車の商品化での実績がある。また、都電や東急世田谷線、名鉄などの商品化もしている。


社名変更 [編集]
2000年9月20日、創業時から長く親しまれていた社名「長谷川製作所」からカタカナ表記の「ハセガワ」に商号・社名を変更し現在に至る。

2009年03月07日

チャールストン (防護巡洋艦)

チャールストン (USS Charleston, C-2) は、アメリカ海軍の防護巡洋艦。艦名はサウスカロライナ州チャールストンに因む。その名を持つ艦としては2隻目。

艦歴
チャールストンはアメリカ海軍初の防護巡洋艦であったが、鋼製巡洋艦建造の経験不足から設計はイギリスのアームストロング・ミッチェル社で行われた。1887年1月20日にカリフォルニア州サンフランシスコのユニオン鉄工所で起工し、1888年7月19日にA・S・スミス夫人によって命名、進水、1889年12月26日に艦長ジョージ・C・レメイ大佐の指揮下就役した。

1890年4月10日にメア・アイランド海軍工廠を出航したチャールストンは太平洋戦隊に旗艦として合流し、東太平洋を巡航した。チャールストンは1891年1月20日に死去したハワイ王のカラカウア一世の遺体を乗せ、サンフランシスコからホノルルまで送り届けた後、5月8日から6月4日まで、チリ内戦時にサンディエゴから逃走したチリの汽船イタタ (Itata) の捜索に参加した。8月19日から12月31日までチャールストンは極東でアジア戦隊の旗艦として巡航し、1892年には再び大西洋戦隊に加わり10月7日まで活動、その後東海岸へ向けて出航し多くの南アメリカの港を訪問した。

チャールストンは1893年2月23日にハンプトン・ローズに到着し、ここから僚艦および他国の艦と共に巡航、4月26日にシカゴ万国博覧会の一部として行われた国際観閲式に参加した。砲艦ドルフィン (USS Dolphin, PG-24) に乗ったクリーブランド大統領が観閲を行った。同年の夏には、ブラジル革命に際してアメリカ合衆国の権益を保護するための部隊に合流し南アメリカの沖合を巡航した。モンテビデオ、ウルグアイでの巡航の後、1894年7月8日にサンフランシスコに到着、アジアステーションに展開するための準備に入る。チャールストンは6月6日まで極東を巡航、横浜を出航しサンフランシスコに到着、1896年7月27日に予備役となる。
パッチ ジベタリ ダゴン ライト スタウト 天福 クロム サマリア リポータ 東海道 バック ストイシ メディシ バレンシ みずほ セラピー シビリテ チレン ノニオン いかほ フォルム なんごう ガロール スパン あの海 マフラ めむろ ナゲット マスカ ボール パート スノー ピーケ パーセル ドオド レインボー マガジン ギャグ チェアマン 海岸通り 千年の時 シャド 白うり ティクス バトラ コボル ユーカラ キンバリー デラウ しじゅう

米西戦争が勃発するとチャールストンは直ちに現役復帰の準備を行い、1898年5月5日に再就役した。16日後にホノルルに向けて出航、陸軍部隊を輸送する3隻のチャーター船と合流した。チャールストンはグアムに派遣され、6月20日の夜明けに小船団はグアムの北端に到着した。チャールストンはアガナで湾を調査し、アプラ港へ移動した。安全に停泊した輸送船から分離したチャールストンは湾に入港、フォート・サンタクルーズに砲撃を開始した。直ちにスペイン軍の使いが返礼の礼砲を砲撃するための火薬を持ち合わせていなかったことを謝罪するために訪れた。彼らはアメリカとスペインが戦争状態にあることを知らず、米艦が島を占領するためにやってきたことを知り驚いた。翌日島の守備隊はチャールストンからの上陸部隊に対して降伏し、スペインの知事と守備隊員は捕虜として1隻の輸送艦に乗せられた。その後チャールストンはマニラ湾でデューイ提督の艦隊に合流した。

チャールストンは1898年6月30日にマニラに到着し、湾の封鎖強化に加わった。8月13日には最後の艦砲射撃に参加し、マニラ市は降伏した。チャールストンはフィリピンに1898年から99年まで留まり、陸軍部隊の進撃に対する支援砲撃を行い、1899年9月にはスービック湾占領を行う海軍遠征部隊に参加した。1899年11月2日にルソン島北方のカミギン島近くの海図にない暗礁で座礁し、船体は大きく破壊されたため、乗組員は艦を放棄、近くの島に上陸した後カミギン島へ移動した。乗組員は11月12日に到着した砲艦ヘレナ (USS Helena, PG-9) によって救助された。

2009年02月18日

撮像管

撮像管(さつぞうかん)は被写体の像を電気信号に変換するための電子部品である。映像信号としてテレビ受像機に像を映し出すための最初の段階を担う部分であり、撮像板が登場するまではテレビビデオの心臓部であった。のちに撮像板(固体撮像素子)が登場し、その後主流は管から板に変わっている。
あっさぶ スロン カーリー デブー ナックス デブリ タング バケツ スメア マンドリル シュテム アーム リッド ピエロ 南瓜 プラス シャンピ スタン ピッツァ いゆふぇく ライブラリー タジア ダンガ モック タイム クシン モッズ トリック ピンマイク 黒太陽 スナンサ ザニア パロール セージラ オーセン モービル ニシキギ ガスケット スラック ストック ジャガー リベンジ デカップ スペア キドニー ヤソウェ 上海慕情 イニシ きほく モラルレ

機能部は真空にした筒状のガラス管に封入されており、先端に配置された撮像面に光学系により被写体の光学像を投影し、光の強弱を電気信号として取り出すものである。光?電気変換には、一般に内部光電効果を応用した光導電膜を用いることが多く、光導電膜の素材により様々な撮像管が開発された。例えば初期の撮像管であるビジコン(英: vidicon)は三硫化アンチモンを用いたものある。光の強弱によるこの光導電膜の抵抗変化を、撮像管を囲むように配置した偏向コイルなどによって走査される陰極からの電子ビームで外部に読み出すのが基本動作原理である。

世界初の撮像管は1931年にフィロ・ファーンズワースのつくったイメージディセクタである。
実用的な撮像管として最初のものは1933年にウラジミール・ツヴォルキンのつくったアイコノスコープ (iconoscope) である。
撮像管は電子管の一種であり、固体撮像素子に比べて性能維持や調整に手間がかかる。また固体撮像素子の品質が向上し、放送用として充分な画質を得られるようになったことから、撮像管は次第に固体撮像素子に置き換わっていった。

現在では、撮像管は高感度暗視カメラなどの特殊な用途に使われている。

主な撮像管には以下のようなものがある。【】内は光導電膜の素材を示す。

イメージディセクタ・・・P. T. Franswarth(フィロ・ファーンズワース)が発明
アイコノスコープ・・・V. K. Zworykin(ウラジミール・ツヴォルキン)が発明
イメージオルシコン・・・アメリカ・A. Roseらが発明
ビジコン・・・アメリカ・RCAが開発【Sb2S3】
プランビコン・・・オランダ・フィリップスが開発【PbO】
サチコン・・・NHKと日立製作所が開発【Se・As・Te】
ニュービコン、ニューコスビコン・・・パナソニックが開発
トリニコン・・・ソニーが開発
HARP(ハープ)・・・NHKと日立製作所が開発(超高感度撮像管; High-gain Avalanche Rushing amorphous Photoconductor)【a-Se】[1]
イメージインテンシファイア(I.I.)・・・浜松ホトニクスが開発(Image Intensifier)【GaAs、GaAsP、InGaAsまたは他】

1931年、1926年のKálmán Tihanyiの電子カメラ管の5年後、ウラジミール・ツボルキンは画像を光反応物質で捉える事に特化した真空管の特許を申請した。光電面に光が照射されて電荷が生じた所を電子線を走査する事で電荷量に応じた電流が流れることで画素の光の強弱を電気信号に変換する仕組みである。ファーンズワースの画像検出器とは異なりツボルキンのものは約75000ルクスでより高感度だった。容易に鮮明な画像を得る事ができた。アイコノスコープは1936年から1946年までイメージオルシコン管に置き換えられるまで初期のアメリカでの放送に用いられた。

作動原理
画像はレンズを通り右上から入射して光電面に投影される。光電素子のモザイクに光の量に応じて電荷が蓄積される。陰極線が光電面を走査すると電荷が放電する。管の左から増幅器へ画素の明るさに応じた電流が流れる。

イメージオルシコン
イメージオルシコン管 (通称IO)は1960代まで一般的に使用されていた。ファーンズワースのimage dissectorとRCAのオルシコン技術の組み合わせによって光の効率を高めアイコノスコープ/オルシコンを置き換えた。

イメージオルシコンはRCAのAlbert Rose, Paul K. Weimer,とHarold B. Lawによって開発された。テレビの分野に大きな影響を与えた。RCAは1939年から1940年に原型を開発した。

業界での愛称が"Immy"で、これを女性化した"Emmy" がアメリカのテレビドラマを始めとする番組のほか、テレビに関連する様々な業績に与えられる賞であるエミー賞の名前の由来である[5]。

ビジコン
ビジコン管 (通称 hivicon tube) はターゲット材料に光導電体を使用した設計の撮像管である。ビジコン管は1950年代にRCA のPK WeimerとSV ForgueとRR Goodrichによって開発された。当初は光導電体にセレンやシリコンダイオードアレイが使用された。

ビジコンは光導電面に電荷を蓄積する蓄積型撮像管である。光電面を低速の電子線で走査する事により放射される。

プランビコン
プランビコン(Plumbicon)はフィリップスの商標である。光電面が酸化鉛のビジコンである。放送局で使用された。出力は弱かったが、信号/雑音比が優れていた。イメージオルシコンに比べて解像度が優れていたが、輪郭が不自然だった。CBSは輪郭を補正した。

光電面: PbO ? 酸化鉛

Saticon
Saticon は日立とトムソンとソニーの商標である。光電面はSeAsTe ? セレン砒素テルルである。

Pasecon
PaseconはHeimannの商標である。光電面はCdSe ? カドミニウムセレンである。

ニュービコン
ニュービコンはパナソニックの商標である。ニュービコンは高感度であった。光電面はZnSe, ZnCdTe ? 亜鉛セレン、亜鉛カドミニウムテルルである。

トリニコン
トリニコン(Trinicon)はソニーの商標である。垂直の縞状のRGBフィルターが受光部にあり、赤、緑、青を走査する。放送用のカメラは各色にそれぞれ1本の撮像管を使用していたのに対してローエンドのカメラやカムコーダーにはこの1本で3色受け持つ撮像管が使用された。1980年代DXC-1800やBVP-1に使用された。CCDの普及により使用されなくなった。

2009年01月28日

野田城の戦い

野田城の戦い(のだじょうのたたかい)とは、元亀4年(1573年)1月から2月にかけての武田信玄と徳川家康の戦い。
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前年12月の三方ヶ原の戦いにおいて、家康と織田信長の連合軍は武田軍の前に大敗を喫した。これにより、徳川軍の遠州防衛網は事実上崩壊。織田軍にいたっても畿内各地の敵大名の反乱鎮圧に追われて、武田軍の侵攻を防ぐことは事実上不可能となった。

ところが、武田信玄は三方ヶ原の戦いから半月にもわたって、形部村という遠州浜名湖北岸の小さな村に滞在する。そして翌年、元亀4年正月10日になってようやく刑部を出発、細かく宿泊を重ねて宇利峠から三河へ進入。豊川を渡河、徳川方の三河における属城のひとつである野田城を包囲したのである。

元亀2年の時点で長篠城まで支配下に治めていた武田氏ではあったが、さらに南の野田城が徳川方として意地を張り続けているのが目障りであった。

攻防戦
この野田城は『三河物語』においては、「藪のうちに小城あり」と言われるほどの小さな城で、必ずしも堅城ではないように思われる。籠城軍にしてみれば、河岸段丘の地形を利用された築城のため、攻城方・武田軍の攻め口が限られてくる利点があった。その上、この2年前には同じく武田軍によって仮城であった大野田城を防戦できないまま放棄・退散させられた苦い経験があり、これを教訓として防備を高めていたのであった。

とはいえ、城将・菅沼定盈が統べる城兵は、縁戚・設楽貞通の援軍を合わせたところで僅か500名程度に過ぎず、3万人を数える武田軍の精鋭が攻めかかれば落城は時間の問題と考えられるほど、戦力格差が際立っていた。

ところが、信玄はこの野田城を力攻めせず、わざわざ甲斐の金山掘を呼び寄せて地下道を掘り、水の手を断ち切ることで落城に追い込もうとしたのである。いつもは風林火山のもと、速きこと風の如しである信玄のこのような一連の鈍重すぎる動きから推測するに、恐らく信玄は三方ヶ原の戦い直後から、病気に倒れたものと思われる。

城将・定盈の子孫が記した『菅沼家譜』によれば、家康も援軍を率いて豊川の対岸山頂に現れたという。だが、三方ヶ原の戦いでの大敗から間もない中での出陣で、野田城救出の為に更なる損耗を選択できなかった家康は一戦も交える事無く、撤退してしまったのだった。歓喜の声で沸き返っていた城内は一転、絶望の淵に突き落とされたという。

それでも野田城は定盈のもと、善戦して1ヵ月を持ちこたえ、2月16日になってようやく降伏したのである。定盈は身柄を拘束され、長篠城まで退いた武田軍に連れ去られた。翌月3月10日、徳川方との人質交換によって定盈は解放された。

狙撃伝説
なお、この野田城攻防戦のとき、信玄が菅沼氏の家臣・鳥居三左衛門なる者に狙撃されたという説があるが、定かではない。ただし、本来ならあっという間に武田軍が落とせたはずの城を1ヶ月もの期間を費やしたのは、明らかな「異変」である。

野田城が落城したことにより、徳川軍の三河防衛網も崩壊し、吉田城、岡崎城も危機に陥った。ところが武田軍は野田城を落とした直後、破竹の進撃を止めたばかりか、全軍を甲斐に引き返すこととなる。これは、信玄の病がいよいよ重くなったためと言われている。なお、信玄は元亀4年4月12日に永眠した。言わば野田城攻防戦が、武田信玄最後の戦いとなったのである。

木崎原の戦い(きざきばるのたたかい)は、元亀3年(1572年)、日向国真幸院木崎原(現宮崎県えびの市)において伊東義祐と島津義弘の間でおこなわれた合戦である。大軍(3000人という説が有力)を擁していた伊東側が僅かな兵力(300人)しか持っていなかった島津側に大敗したことから「九州の桶狭間」とも呼ばれる。なお、この戦いには相良義陽も伊東軍と連合する予定で出陣したが、義弘の計略により撤退している。

この戦いをきっかけとして伊東氏は急激に衰亡し、後の「高城川の戦い(耳川の戦い)」の遠因ともった。

「木崎原合戦」とは島津側の呼び方である。伊東側では「覚頭(加久藤)合戦」とされている。

元亀2年(1571年)6月、薩摩の島津氏十五代当主・島津貴久が没すると、大隅の肝付氏が島津領に侵攻し始めた。日向の伊東義祐はこれを好機と見て、真幸院(現・宮崎県えびの市、同小林市、同高原町、同野尻町)の完全支配を目指すべく、翌年の5月にいまだ島津が治める飯野地区への大攻勢を開始する。

加久藤城攻城戦
伊東義祐は事前に人吉の相良義陽のもとに密使を送り、この合戦への援軍を約定させる。 元亀3年(1572年)5月3日の夜中に、伊東祐安(加賀守)を総大将に、伊東祐信(新次郎)、伊東又次郎、伊東祐青(修理亮)を大将とした青年武士を中心とした3000余の兵は、島津領との最前線に位置する小林城を出立する[1]。 翌未明に飯野・妙見原に到着、ここで軍を二手に分け、一軍は島津義弘の居城・飯野城の抑えとして妙見原に留まり、もう一軍は伊東祐信と伊東又次郎が率いて、飯野城を横目に上江村から木崎原を抜け、義弘の妻子が籠る守兵50人ほどの加久藤城へ攻撃をしかけるべく進出した。

祐信はまず手始めに加久藤城周辺の民家を焼いて島津軍を挑発した。それにより加久藤方面の夜空が炎で赤く染まり、それを見た近臣により義弘は起こされる。だが、義弘はすでに盲僧・菊市を間者として伊東領内に送り込み、この情報を得ていたため対応は落ち着いていた。 義弘は狼煙を上げさせ大口城の新納忠元や馬関田城などに急を知らさせる。そして、兵60人を遠矢良賢に与え加久藤城の救援にあたらせ、五代友喜の兵40人を白鳥山野間口に、村尾重侯の兵50人を本地口の古溝にそれぞれ伏せさせた。 そして有川定真に留守居を任せ、義弘自らも兵150を率いて出陣、飯野城と加久藤城の間の二八坂に陣を張る。

その後、祐信の隊は加久藤城へ侵攻を開始。事前に得ていた情報を元に[2]、城の搦め手に通じる鑰掛口へと迫るが、夜の暗さと若い不慣れな将兵の勘違いにより、鑰掛の登り口にある樺山浄慶の屋敷を間違って攻撃した。 樺山浄慶父子3人は上から石を投下し、更にあたかも多数の将兵がいるように見せかけつつ祐信の隊を攻撃、奮戦するも討ち取られる。 祐信の隊はさらに搦め手へと向かったが、狭い隘路を押し進むことになり、かつ鑰掛口が断崖であったために思うように攻められず、大石や弓矢による攻撃に苦しめられる。 そこへ加久藤城を守る川上忠智が城から打って出て突撃、狼煙により駆け付けた馬関田、吉田からの救援と遠矢良賢の兵による攻撃を受け、祐信の隊は退却を余儀なくされる。この一戦で、伊東杢右衛門や小林城主・米良重方(筑後守)が討ち取られた(異説あり)[3]。

またその頃、真幸院に進出した相良軍500人は義弘が諏訪山の大河平に立てさせた幟を見て、これを島津の将兵と思い込みそのまま人吉へと引き返していた。

池島川での攻防
退却した祐信の隊は池島川まで下がり、鳥越城跡地で休息。兵の多さによる油断と、また折からのむし暑さのため川で水浴びする者が多かった。 義弘は放っていた斥候・沢田八専からその情報をもたらされ出陣、正面からこれに斬り込み沢山の将兵を討ち捨てとした。ここで大将の祐信は義弘との一騎討ちに敗れ三角田の地で討ち取られる。その一騎打ちの際、義弘の乗馬した栗毛の牝馬は、祐信の突き出した槍の穂先が義弘を狙ったとき、膝をつき曲げこれをかわしたという[4] (柚木崎正家との交戦のときとの説もあり)[5]。

義弘は頃合いを見て一時退く。そのあと伊東軍は、祐信の隊と本隊が合流、白鳥山を抜けるコースで高原城へと退却を始めた。

決戦
伊東軍が白鳥山に登ると、白鳥神社の座主・光巌上人が僧侶と農民合わせて300人余りの者に、鉦・太鼓を打ち鳴らさせ、更に白幟を押し立てさせて伏兵を装わせた。慌てて戻る伊東軍に対し義弘は、鎌田政年に兵60人をあずけ敵の背後に廻らせ、自らはこれに正面から突撃するも破れて後退、遠矢良賢を含めた6人が抑えとなり義弘隊を退かせた。 遠矢ら6人は討たれるが、その間に義弘隊は木崎原に至り、加久藤城からの援軍を吸収し隊列を整え再び伊東軍と交戦、島津軍の立て直しの速さに伊東軍は虚を突かれた。そこへ追い討ちを掛けるように伊東軍の背後から鎌田隊が攻撃、伏せていた五代隊が側面から攻撃を加えた。 結果的に「釣り野伏せ」の形となり、伊東軍は隊伍を乱し崩れ始めた。

崩壊した伊東軍は小林城へと退却を始めるが、本地原まで差し掛かったときに伏せていた村尾隊の攻撃を受け、そこで総大将・伊東祐安は脇下を射ぬかれ、真っ逆様に落馬し絶命した(異説あり)[6]。

また、伊東祐安の嫡子・伊東祐次と祐安の弟・伊東右衛門ら160人は小林城とは反対方向の丘へ逃げ、そこを遅れて到着した新納忠元の150騎に討たれたとされる。

島津軍は粥餅田(けもんだ)まで伊東軍を追い柚木崎正家、肥田木玄斎を討ち取ると、そこで全軍に追撃中止の法螺貝を鳴らさせた。 その後、義弘は木崎原まで戦跡を巡検し、負傷者の手当て、戦死者の片づけ、首実検を行った後、飯野城へ帰還し祝杯を一同に与え軍を解いた。さらに激戦地であった三角田に六地蔵塔を建てさせ、敵味方双方の戦没者を供養させた。 また、伊東方でも小林に伊東塚をつくり、戦死者を弔った。

この戦いで伊東軍は幹部クラスの武士128人、それを含めた士分250余人、雑兵560人余りを失い、これが結果的に伊東氏の内部崩壊につながったと言われている。 また、島津軍も士分150人、雑兵107人と参加した将兵の半数を失うという壮絶な戦いとなった。 死体は平地のみではなく付近の山々にも及び、4ヵ月経っても全ての死体を片付けきれなかったという。

真の発端
この合戦は、島津の永禄9年(1566年)の小林城への攻撃が失敗に終わったことにより、義弘により仕組まれたものと考えられる。難攻不落の伊東の小林城を攻めるよりも、逆に伊東にこちらを攻めさせて弱体化させる意図があり、そのために数々の計略を図っている。

義弘の計略
伊東軍の目を加久藤城に向けさせるため、わざと自身の正室と嫡子を住まわせ、あえて兵の数を減らしている。
女間者を伊東家の城の女中として送り込み、加久藤城の弱点が鑰掛口であると呼ばわらせている。
三徳院の盲僧・菊市を伊東領内に遣わし、領民から合戦に関する噂などを収集させている。
相良家から援軍が来る情報を得て、その通るであろう道から見える位置に幟を配置している。
伊東軍を木崎原の平地に誘い込むため、伊東軍が白鳥山の偽兵を避けてなおも南下しようとするであろう位置に黒木播磨に指揮させた偽兵を配置し、南下を取りやめ東の妙見原に転じるであろう位置に更に偽兵を配置、木崎原方面に進まざるを得ない状況を作っている。
「釣り野伏せ」のために事前に五代友喜の兵を伏兵させ、鎌田政年の兵を伊東軍の背後に廻らせている。
退却路を限定させるために、本地原の古溝に村尾重侯の伏兵を、横尾山に富永万左衛門に指揮させた偽兵を配置させている。

^ このときはまだ「三ツ山城」と呼ばれていた。
^ 伊東軍が事前に得た情報は女中に化けた、義弘による女間者がもたらしたものであり、伊東軍をだまして城攻めに不利な場所へと誘導するためのものだった。
^ 小林城主・米良重方が討ち取られた話には、伊東軍の加久藤城退去中に上野隼人佐が討ち取ったとする説と、白鳥川に至る寸前で黒衣の僧・久道に銃殺された説がある。但し、伊東杢右衛門が久道に討たれたとの記録があるため、それと混同している可能性がある。
^ のちにこの馬は”膝突栗毛”と呼ばれ大事に扱われた。人間の年齢にして83歳まで生き、帖佐(鹿児島県姶良町)の亀泉院に墓碑を建てられ葬られている。
^ 膝突栗毛の話は、島津義弘と伊東祐信の一騎打ちのとき、祐信の槍による攻撃の際に起こったとするのが代表的だが、義弘と柚木崎正家のときであるとする説もある。その場合、柚木崎の待ち伏せ説と殿軍中説、一騎討ち中説があり、更に柚木崎の攻撃が槍によるものとする説と弓矢による説とがあり、いま一つ判然としていない。また、祐信との戦いと柚木崎との戦いの両方で膝突栗毛が膝を突いたとの説も一部にある。
^ 伊東祐安は、嫡子・伊東祐次が討たれたと報告を受け、急遽馬首を返し嫡子の仇を討つべく引き返していって討たれたとも言われる。

2009年01月20日

女性アイドルの歴史

語源的には1960年代まで、女性歌手や女優に対する「アイドル」という語はあまり使用されていない。美空ひばりや吉永小百合などの「国民的人気」を持つ少女歌手や少女女優は、一般的に「子役スター」と呼ばれていた。また、現在におけるアイドルユニットに相当する「三人娘」(美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみ)、「スパーク(ナベプロ)三人娘」(中尾ミエ・伊東ゆかり・園まり)が国民的な人気を博した。

1970年代のアイドル
一般的に、アイドル誕生年は後述の「三人娘」が登場した1971年であり、カラーテレビの本格運用・普及の時期である。アイドル発生にはアイドルの重要要素である「色」が映像に加わったという時代背景があった。 1970年代初頭に南沙織がデビューし、天地真理、麻丘めぐみらが活躍する(この頃、南・天地と小柳ルミ子が「三人娘」と呼ばれた。後々「新三人娘」の呼称で定着)。これらの少女タレントに対し、「子役スター」に代わって「ジャリタレ」という言葉が業界で使われるようになった。一方で、1971年の『第22回NHK紅白歌合戦』に初出場した南沙織が司会者の水前寺清子から "ティーンのアイドル" と紹介されており、この時点で「アイドル」という言葉が既に当時の国民的音楽番組[2]の中で使用されている。

スター誕生出身の山口百恵などがデビューする1970年代後半に入って、「アイドル」という呼称が芸能人・タレントの総称として一般化するようになる(現在用いられているような清純派芸能人という意味合いではない)。この後、キャンディーズ、ピンク・レディーといった、アイドルグループも登場し彼女等が親衛隊の組織化やステージパフォーマンス、ヒラヒラのステージ衣装、今日のオタ芸の前身となるコール等いわゆるステレオタイプなアイドル像を創り出した。また、「花の中三トリオ」(山口百恵、桜田淳子、森昌子)以降、タレントの低年齢化が進んだ(天地真理のデビューは20歳)。

980年代のアイドル
1980年代は女性アイドルの黄金時代であった。正統派の松田聖子を筆頭に、それに続く中森明菜から邪道とされるおニャン子クラブまでさまざまなタイプの女性アイドル(グループ)が現れた。女性アイドルのプロデュース手法などは、この時代に確立されたものである。

1980年代前半は、1980年デビューの松田聖子を初め、1982年デビューの中森明菜を筆頭とした花の82年組がそれに続き、多数のアイドルが生まれ、アイドル黄金時代と呼ばれる。

80年代アイドル全盛期の中でも、アイドルの当たり年は一般に、1980年、1982年、1985年と言われている。

1980年…松田聖子、河合奈保子、三原順子、岩崎良美、柏原芳恵など。
1982年…中森明菜、松本伊代、小泉今日子、早見優、石川秀美、堀ちえみなど。
1985年…おニャン子クラブ(工藤静香らが所属)、中山美穂、本田美奈子、芳本美代子、斉藤由貴、南野陽子、浅香唯など。特に、中山・南野・浅香・工藤は「アイドル四天王」とも呼ばれた。
80年代前半のアイドルの特徴は、デビュー時にキャッチフレーズが付けられていたことである。

松田聖子…抱きしめたいミスソニー
中森明菜…ちょっとエッチな美新人娘(ミルキーっこ)
山瀬まみ…国民のおもちゃ、新発売(なお、National Pastime―「国民のおもちゃ」というバンドもアメリカに実在した) など
また、80年代前半の一時期は、歌詞に自分の年齢を入れることも流行した。

松田聖子…エイティーン
中森明菜…少女A
松本伊代…センチメンタル・ジャーニー
小泉今日子…私の16才 など
しかし、1980年代終盤に入るとロックやニューミュージックバンドが台頭するようになり、工藤静香やWink、森高千里を最後にアイドル歌手は凋落し始めていく。それと並行して、お笑い芸人顔負けの個性を表に出したバラエティアイドル(バラドル)が登場した。代表に松本明子、井森美幸、森口博子、山瀬まみ。

また、素人集団を売りとしたおニャン子クラブが業界を席巻した1985年以降は、従来の神秘的イメージを売りにしたアイドルは普通っぽさを売りにした身近なアイドルにとってかわられて行く。

1990年代のアイドル
従来の「歌手」から、テレビCMや雑誌のグラビアなど、ビジュアルを主体とした「モデル」型、豊満なバスト(巨乳)を売りとした「グラビアアイドル」が新たなアイドル像を形成した。「モデル」型では「3M」(宮沢りえ・観月ありさ・牧瀬里穂)がテレビCMで人気を博し、「グラビアアイドル」ではかとうれいこ、細川ふみえ、山田まりやなどが雑誌グラビアを足がかりに、テレビCMやバラエティ番組へと進出していくようになった。後半からはかつてアイドル歌手、アイドル女優を多数生み出してきた大手事務所もグラビア市場に参入しグラビアアイドルが市民権を得る。

1988年頃から1993年頃にかけては、それまでの歌手活動を中心とする女性アイドルは、主に、CoCoの台頭が目立ったはものの、テレビの歌番組の衰退とともに「アイドル冬の時代(または「アイドル氷河期」)」に入る。またこの時代以降若手女性タレントが自らをアイドルと名乗ることが一部を除きタブー化していった。

1990年代中盤は小室哲哉プロデュースによる歌手たち(小室ファミリー)や安室奈美恵、SPEEDら沖縄アクターズスクール勢がヒットを連発した。また、それまでのアイドル歌手とは異なり、キャラクターの作りこみの少なさを兼ね備えることで人気を得た。しかし、曲のパターンが単一化していく中で次第に飽きられ、R&Bやヒップホップが主体となると凋落し始めた。

1990年代後半になるとテレビ東京の番組『ASAYAN』のオーディションにおいてデビューが決まった鈴木あみやモーニング娘。が台頭し、そのモーニング娘。を中心としたつんくプロデュースの歌手集団ハロー!プロジェクト勢やアイドル女優出身の浜崎あゆみが人気を得た。また、この辺りになると歌唱力があり、ダンスも完璧に踊れる完成されたアイドルが主流になり、従来のアイドル像からハードルが一気に上がったのもこの時代である。

アイドルそのものも多様化し、それによりアイドルの性格も大きく変わる。アイドル女優、バラドル、グラビアアイドル、女子アナ、レースクイーン、スポーツ選手、チャイドル、お菓子系アイドル、声優、TV特撮のヒロイン、地下アイドル(ライブアイドル)、AV女優などアイドルは様々なジャンルに分散していった。
らんたい レタリング ゾンサワ ブルーフ リゲル ジューレ デリー きあおみ 千社札 マッタ ピーカン かつお菜 スリム ピアス ヤペテ チェンナイ 飛躍 マトリ ステップ オレゴン マーメイド スタート スピー しんとつ リュート ドラジェ ガッツ ベロッパー わくや トレイ ソリッド レイト ソーター シェーマ セオド ミント最適 カーンプル ミノロジー タイム たいわ スイッ ハンター スイート ランチコ スクープ シルヘット ヒュー ダート チャプレ ラッキ

このような背景から、女性アイドルのイメージに、実力より人気先行・子供向け等のマイナス面があるとして女性アイドルと呼ばれるのを嫌う歌手、タレントも増えた。そのためかある時点でアイドル卒業を宣言したりする女性アイドルさえいる。

2000年代のアイドル
歌手という正統派のアイドルの系譜は、この頃になるともはやアイドルとしてではなくアーティストという在り方で登場する。ただし旧来型のアイドルとは異なり、歌唱力、作詞力、同性の支持が必須条件として求められるようになった。それと同時にアイドルの概念は細分化、周辺化し、グラビアアイドルや女性タレント等がアイドルシーンの中心となって活躍。アイドル輩出の土壌は多様化している。また1980年代と異なりアイドルという言葉が負の要素で使われる事が非常に多くなり平山あやの項目にあるとおり従来アイドルに位置すると思われるタレント自らがアイドル呼ばわりを固辞する等という現象も随所に見られるようになった。よって現在では「アイドル」という確固たる立場で活躍するよりは、さまざまなシーンにおいて活動を行いなおかつアイドル性も併せ持つという場合の方が多い。

また、それに伴いアイドルの短命化が進んでおり大ヒットすることが少なくなり、大量生産大量消費状態となっている。かつてのアイドル仕掛け人であるホリプロ創業者の堀威夫が嘗て読売新聞のインタビュー記事で「昔は即席めんが受ける時代だからズブの素人がスターになることが受け入れられた。現在は高い金を出して並んででもうまい物を求める時代だからそうはいかない。今の時代スター誕生のような番組をやっても時代に合わない。」と話し、同じく仕掛け人の一人である相澤秀禎も自著の中で「女性アイドルといえど今は同性の支持なくして売れず、同性の支持の方が重要だ。」と述べる等最早女性アイドルという概念そのものが変貌を求められる時代になったと言える。

00年代前半は、モーニング娘。、松浦亜弥らが所属するハロー!プロジェクト勢をはじめ、宇多田ヒカル、浜崎あゆみ、倉木麻衣、中島美嘉、大塚愛等、ルックスを兼ね備えた若手歌手らも人気を集めた。また、00年代中盤?後半では、上戸彩、長澤まさみ、新垣結衣、堀北真希らをはじめとするアイドル女優に加え、中川翔子、スザンヌ、小倉優子、若槻千夏らのバラエティアイドルが台頭し人気を得ている。